価値観と寂しさ
ブログではめちゃくちゃお久しぶりです。
ある界隈の中ではすごいことでも、知らない人たちにとっては「なにそれ?」ってことがたくさんあるのは当たり前、当たり前なんだけど、そういうのを目にするたびに切ない気持ちになる
— すー (@su_pey) 2016年7月6日
このツイートから吐き出すように連続ツイートしてしまったのですが、普段から考えていることをちょっと上手く書けた気がしたので、ブログにまとめてみました。実際のツイートから少し手を加えています。
どんどん話題が変わっていて結局何が言いたいのか?って感じですが、自分の中の寂しさの話をしているんだと思います。たぶん。
ある界隈の中ではすごいことでも、知らない人たちにとっては「なにそれ?」ってことがたくさんあるのは当たり前、当たり前なんだけど、そういうのを目にするたびに切ない気持ちになる。
みんなが同じ価値観を持っている世界なんてめちゃくちゃ怖いし、バラバラで自由な方がいいっていう考えは自分の中にちゃんとあって、そこは揺るがないんだけど、「ここに流れてる川、深くて大きいな…繋がることはないのかな」と思う時がある。
そういう、文化がズバッと断絶されてる感じが気になるし、自分が興味のない界隈の価値観とかもできれば知っておきたいと思うので、さらっと触れてみたりして「なるほどココではこういうのが盛り上がってるのか〜」とか思ったりする。結果めちゃくちゃ「知ったか」になっちゃうんだけど。
人間関係でもそうだけど、違う価値観で無理に交わったり共感する必要は全くないと思う。ただ、「何それ理解できない」で終わるんじゃなくて、「あ〜、あっちはこんな感じなのかな?」ってなんとなく想像したり、少しでも知りたいと思っちゃう。よその人が中途半端に触れてもきちんとわかるわけないんだけど、だけど、自分とは関係ないからノータッチというのは、寂しく感じる。
こういう自分の考えを突き詰めていくと、だいたいいつも「寂しい」という気持ちに行き着く。私自身はちっとも全く寂しい環境じゃないのに、人と人の考えの違いに過敏すぎるせいで、「寂しい」と思いやすい。だから上記のような断絶されてる感じが気になるし、好きになる芸能人やキャラクターには自分と重なる部分を求めてしまう。
寂しいくせに集団行動が苦手なのは、集団でいるほど自分と人との違いが浮き彫りになって、余計に孤独を感じやすいからなのかも。
私が井上靖の「星と祭」という作品をものすごく好きなのは、そういう全く価値観の違う相手のことを、少しだけ認めることができた瞬間が描かれているからだと思う。娘を亡くした父の再生の物語なんだけど、娘と共に亡くなった青年の父親を認めることができたと同時に、娘の死も受け入れられたというラストが本当に素晴らしく、涙が止まらなかった。
価値観を共にする人と出会うことも貴重だけど、異なる価値観の人のことを一瞬でも何か少しわかったり、通じる瞬間って奇跡だなとすごく思う。別にそのあと仲良くなる必要はなくて、「星と祭」の架山と大三浦ももう会うことはないんだろうけど、それでいい。
(だからガキれな*1にも惹かれるんだな〜。)
井上靖の「星と祭」は、十年前に出た新装版の文庫ですら絶版になっちゃったし、主人公が立ち直るために琵琶湖の十一面観音様*2とかヒマラヤに行く描写が長いけれど、遺体の見つからない娘の死というものはそれほど重いのだと思う。
見かけたらぜひ!あ、Kindle版ならあるみたい。こういう時、電子書籍ってありがたい。
※ちなみに「星と祭」を読んだきっかけは、版画家の猫野ぺすかさんが文庫新装版の表紙を手がけているから。そして猫野さんを知ったのは、今は亡き新宿のcafeユイットでの展示を偶然見たからです。
*1:【新垣里沙卒業記念DVD】Morning Days 11~新垣里沙&田中れいな in 福岡~
*2:琵琶湖には十一面観音がたくさんあり、みんな琵琶湖の方を向いているそう。素朴な美しさがあること、集落の人たちに守られており、戦国時代は戦火から逃れるため土に埋めたり水の中に隠したということが「星と祭」の中で紹介されています。数年前、私も琵琶湖の観音様に会いに行きました。